ガイドブックに載らない戦跡

観光で戦跡というと、ひめゆりの塔と摩文仁の丘しか思い浮かばない方も多いが、沖縄はいたるところが戦跡である
と言って過言ではない。本島中部から南部にかけては一本の草木も残らないほどの焦土と化し、想像を絶する戦いが
あちこちで行われた。
米軍1万4000人、日本軍7万6000人、沖縄県民は軍属・民間人合わせて14万人ともいわれる戦死者を出した。

このようなおびただしい犠牲者を出した戦場も、現在はその痕跡すら無くなっている。年間500万人を越える観光客が
訪れ、何事も無かったようにかつての戦場だった場所を歩き回り、観光を楽しんでいる。
60年前、一体この地で何があったのか、現地に行ってその痕跡を確認してみようと思った。
アメリカ軍 沖縄本島上陸 1945年4月1日朝、米軍は読谷の海岸に上陸を開始し、本島を分断した。
嘉数高地の戦い 4月5日、牧港川を渡河した米軍は嘉数高地の日本軍と激戦となった。
小湾から安謝 首里を目指す米軍は5月10日安謝川を渡河、第52高地(シュガーローフ)に迫る。
シュガーローフの激戦 首里を守る最後の砦、シュガーローフで沖縄戦最大の激戦が行われた。
5月19日、天久・安里が陥ち、米軍は首里に迫る。
那覇市内 すでに那覇は放棄されていた。狙撃兵が潜む街を米軍は進む。
泉崎〜城岳の攻防 日本軍は城岳の通信基地から米軍を攻撃した。
首里陥落 5月27日首里城の地下の第32軍司令部は辛くも南部に撤退。米軍は首里を制圧。
小禄 小禄飛行場も米軍に接収された。
与那原 徹底的に破壊された与那原。
具志頭・東風平 6月5日、南下する米軍は具志頭前線陣地の日本軍と交戦する。
南部・摩文仁 日本軍の組織的戦闘は終焉に向かう。
その他の地区の戦い 工事中