天空編NO2023 

(天使のつぶやき)


なおりんさんのメールです。


なおりんさんのメール

NO2019の凛さんのメールを拝見していて、私まで、すがすがしい気持ちになるような感じがしました。


人はそれぞれ長所と短所があり、どちらもその人の持ち味なのだと思います。

他人の良いところだけ見て自分と比べてしまうと、とても焦ります。

「どうしてこうなのだろう」

と自分を責めてしまいます。

けれど、

「他人の良いところは所詮他人のものであり、自分の良いところは別にある」

とわかっていれば、そんなに責めてしまうことはないように思います。

「こうなりたいな」

というお手本にはしても、

「自分を責める材料にしないようにしないとなあ」

と思いました。

自分を大切にしていると自然と周囲も大切にできます。

そうするととても良い波動が出て、低級霊などは近寄れなくなるのではないかなあと感じました。

のところを読ませていただいて、はたと思ったことがありました。

今年の3月から、交通事故にあった5月にかけて、私は、精神的にとても不安定でした。

なぜ、悪魔っ子が夢に登場したのだろうNO1959とその意味をずっと考え続けていました。

悪魔っ子が私の夢に登場したのは、決して、月人のせいでもなく、サタンの手下の妨害でもないと、私は感じていました。
(私は、月人やサタンの手下に狙われたり、妨害されたりするほど、立派な人間ではないと思うので。)

理由がはっきり分かりませんでしたが、凛さんのメールを読んで、思い当たりました。

それは、

「自分がだめな人間だ」

と思い込みすぎていたのではないかと思いました。

今年の3月で職場を変わりました。

落ち込んだのはそれからです。

落ち込みの原因は、

「前の職場での私の心のもちよう」

に原因があることに気づきました。

明らかに前の職場は、自分の能力以上のものを要求され、ついていけませんでした。

確かに、自他共に認めるダメな人間だったと思います。

いつも、

「ダメ」

「ダメ」

「ダメ」

と言われつづけていました。

私は、

「その職場の人々にはない、よさを持っている」

という自覚はありました。

天使の目から見ても、そんなに恥じる思いをもったり、恥じることはやっていないと思っていました。

でも、その職場(社会)の価値観に合わなければ、

「ダメ」

と言われるしかなかったのです。

今、思えば、私の心は、周りからの

「ダメ出し」

のオンパレードで、私の心は、小さく小さく、萎縮してしまっていたのでしょう。

凛さんの言われるように、優秀な人と比べ、また、「だめ」な自分を自覚し・・・。

がんばってもできないので、反省するしかなく・・・。

でも、反省しても体力と能力がついていかないため、また、失敗し・・・。

怒られ・・・。

その繰り返しでした。

「私にだって、他の人には負けないよさがある・・・。」

と、何回、自分に言い聞かせたことか・・・。

でも、この時は、私が一人、言い聞かせても、周りの大勢の人々からは、

「ダメ」

の連呼なので、もう、抗いようのない状態でした。

私は、だめな人間として2年間、耐えるしかありませんでした。

そこの職場に一人の女性がいました。

その人は、私より、まだ、厳しい条件でした。

でも、あっけらかんとしておられました。

「私は私だもんね。」

といつも、言っておられました。

女性にとって、苛酷な職場でしたが、その方はけっこう明るく生きておられました。

ただ、やはり、行いについては反省できても、心の面で反省ができない方だったので、心は決して磨かれているとはいえませんでした。

そのような事を見過ごす、職場の人々ではありませんので、周りからは、あまり、好かれていなかったように思います。

でも、その女性は気にしないでけっこう明るく生きていました。

凛さんのメールと自分の辛い経験をだぶらせながら考えました。

『天使の心に少しでも近づけるように、反省しながら、心の垢を落としていくことは基本。』

『ただ、それと同時に、自分なりに精一杯やっているのであれば、 その時、すぐに「理想の自分」にたどりつけなくっても、そのために、人から過小評価されても、 今のがんばっている自分を

「がんばっているね、そのうち、きっと、よくなるよ」

「がんばること自体が大切なんだよ」

「結果を早く求めすぎないことだよ」

「それでいいんだよ」

と、自分で受け入れてあげることが、とても、大切。 』

と、思いました。

男性なら「なにくそっ」

と、思ってふんばることができる方も多いかもしれませんが、女性、特に感受性が強い方や、すぐ人と比べてしまう自分に自信のない方、あまりにも苛酷な試練を受けている方、社会経験があまりない方等は、私のようなことに陥りがちになるのかもしれません。

4月から、元の職場に復帰して、私は、2年前の自分と違っていることに気づきました。

前の職場でよいと分かっていてもできなかったことができ始めたのです。

その時は、理想を掲げてもできなかったことが、2年間、諦めずにがんばり続けることで、できるようになってきたのです。

2年前より一回り自分なりに成長したと思いました。

周りからのダメ出しに打ちのめされながらも、がんばり続けてよかったと思いました。

「良薬口に苦し」ですものね。

温かい環境は、魂を伸び伸びさせ、その人のよさや悪さを開花させてくれますが、自分にとって、つらく感じる環境や胸をつくような人の忠告は、自分にとっては、苦しいだけのようでありますが、温かい環境のみでは得られなかった、大きなものを得ることができるのだなあと思いました。

今は、私を鍛えてくれた環境や職場の方々にとても、感謝しています。

もし、今、2ヶ月前の私のように辛い課題に打ちのめされかかっている方がおられましたら、凛さんの言われるように、「理想」、「お手本」は大切に掲げて、それに向って努力はしても、今、すぐ、そこに到達できなくても、諦めないでがんばってまいりましょう。

自分の課題に気づき、それを認め、よりよくしていこうとして、がんばっている自分を褒めて、認めてあげましょう。

自分を認め、エネルギーを補給しつづけなければ、生きていけませんよね。

いずれ、理想に近づくことができるぐらいに考えて、のんびり歩んでいきましょう。

私も、そうしたいと思います。

私は、小さく萎縮してしまった心を勇気づけ、解放してあげ、立ち直るのに2ヶ月かかりました。

この立ち直りに失敗したら、私は敗北者人生を歩むことになったでしょう。
(実際に立ち直りに失敗して、悲惨な人生を歩んだ方もおられるようです。)

でも、立ち直れたのは、主人や娘、千成さん、このサイトの皆さんのおかげだと、心底思います。

つらいときに、本当に励まされました。

また、心の勉強にもなりました。

皆さんに、心から、感謝申し上げます。


千成の返事

なおりんさんの環境はとても厳しかったことがわかります。

ぼろぼろになりながらの体験です。

きっと同じような体験をされている方がおられるにちがいありません。

こうゆうぼろぼろな体験が、一つだけ役立つことがあります。

ぼろぼろから抜け出さないかぎり自分がゼロになってしまうので解決策を、必ず考え出すことができることです。

生か死か!

そんな感じですね。

人間は、そうゆう状況では、どんなことがあっても解決策を考え出す必要性に迫られます。

自分の持てる総てのエネルギーを振り絞らねばなりません。

なおりんさんは、そのエネルギーを使って

必死に考えられたのでしょう。

考えに、考えた結果、心磨きをする必要性に気がつかれたのかもしれませんし、人生を深く見つめることができたのかもしれません。

いわゆる

“苦労人”

になられたのでしょう。

そして、

「努力している自分を好きにならねばならない」

という結論を得ることがおできになったようです。

人間は、人と比較するのが一番いけませんね。

比較によって劣等感や優越感が生まれます。

優越感は

「自己偉大妄想」

につながりますし

劣等感は

「自己憐憫」

「被害妄想」

になります。

それもこれも、他人(ひと)と比較する癖からきています。

日本人は、つい他人(ひと)と比較することが多いようです。

集団生活を主にしていると、つい周りと比較してしまうのでしょう。

ただ、それもこれも

「自己偉大妄想」

の裏返しのような気がします。

自分も他人(ひと)も三日月藻である、ということを忘れています。

どんなに能力が高く天才的と言われようと、それは三日月藻の間での話しであって、天才であろうと鈍才であろうと、しょせん三日月藻は三日月藻です。

よく右脳訓練などをすると、本などでも、ぺらぺらとめくっただけで、全部の内容を記憶できるようになったりします。

こうゆうことができると、人間社会では尊敬のまなざしで見られます。

しかし、いったんそん能力を自分が得てしまうと、それを持たない人から見たら素晴らしい能力であっても、

“ただそれだけ”

であることがわかるはずなんです。

聖徳太子は10人の人の話を同時に聞いて聞き分けたといいます。

これだって、ある特殊な訓練さえつめばそうむつかしいことではないようです。

本当は、その能力を得たら、虚しさを感じるはずなんです。

どんなに素晴らしい能力でも、それが出来てしまうと空しくなる。

きっとそうゆうもののはずです。

ところが、不思議なことに、ほんのちょっと他人(ひと)より優れているだけで、優越感を持ったり、逆に劣等感を持ったりします。

人類は狂っているのでしょう。

三日月藻は、なんだか狂っているのです。

それも、これも、他人と比較する癖からきています。

なぜ三日月藻同士が比較し合わなければならないのでしょうか?

どこかにわれわれに対して

「文化として“比較しなさい”と刷り込まれた何か」

があるはずです。

比較する癖が続くかぎり、ある基準を想定すれば、優劣が自然にできます。

そうすると劣等感に打ちひしがれるということも生まれます。

その劣等感をなんとかしようとして霊の世界にのめり込んでしまうこともあるでしょう。

占いにも頼りたくもなるでしょう。

それがわかったら、ありのままの自分を誉めてあげて認めてあげればいいことになります。

やはり、まずは、

「努力している、心の向上を目指している自分」

を自分自身が認め、愛してあげることかもしれません。

自分自身を無条件に愛してあげることが必要なのでしょう。

霊的なことに翻弄される方というのは、根っこに

「愛の欠乏」

があることが多いそうです。

というより、全てだと言われるかたもいます。

「愛の欠乏」

とはとても重大問題です。

親に愛されていないと思った子供はどうしても

「愛の欠乏」

症状になります。

しかし、これを乗り越えるには、ただ一つ!

自分が他人(ひと)を愛してしまえばいいのです。

他人(ひと)を好きになり、愛してしまえば、「愛の欠乏」

は消えます。

難しいけれど、原理は簡単です。

結局、他人(ひと)を愛するようになれば比較する必要もなくなるし、相手を愛している思いが自分自身にも反映して、自分も愛されていると思うでしょう。

三日月藻のすることは、他人(ひと)を愛する習慣を養成することのようです。

それに気が付いていないのがサタンです。

サタンはとっても孤独でしょう。

サタンの心には愛がありません。

つねに疑心暗鬼でしょう。

天使は、サタンの欠点はよく知っているはずです。

そして、自分たちは、常に心を愛で満たしているのだと思います。

われわれが天使と聞くとほっとするのは、天使には愛があるからにちがいありません。

なおりんさんは、みなさんに愛の重要性を知っていただきたくてご自分の体験を話してくださいました。

心が寂しいと感じたら、自分の心を満たしてくれるものを外に探すのではなく、周りの他人(ひと)を愛してしまえばいいわけです。

寂しい心を癒してしてくれるものを外に探しても、いつまでたっても心は癒されません。

ところが自分から他人(ひと)を愛して、親切をすれば、相手がそれを感じようが感じまいが関係なしに、自分の心は愛で満たされてしまいます。

こんな簡単な原理があるのですから、利用しない手はないとおもいます。

なおりんさんが、体験談を詳しく書いてくださったおかげで少し見えてきたようです。

どうも、われわれ人間は、動物の一種として序列の世界に置かれたために、優越感や劣等感に苛まれるようになったようです。

猿の世界でも頂上にはボスざるがいます。

犬でさえも、序列があります。

動物は総て序列の世界に置かれています。

それと同じで、人間社会にも序列があります。

中小企業の社員は大企業の社員の名刺を見ただけで頭を下げます。

すべてが序列になっています。

その上に競争原理まで組み込まれています。

これから、精神的に抜け出ないかぎり、天使の社会には移行できないのかもしれません。

サタンが総ての自然や動植物に組み込んだこの序列から抜け出すには愛しかないのでしょうか!