天空編NO3016 

(天使のつぶやき)

「悪を抱き参らせる」の考察 

千成記

ひふみ神示に

「悪を抱き参らせる」

という表現があります。

でもこの表現を、素直に考えたら、

「悪人とお友達になりなさい!」

なんて言っているみたいです。

この教えをまともにとると、わたしたちは一度、

「正義や悪という言葉を忘れてしまわねばならない」

のかもと思えてきました。

人殺しをする人にもそれなりの理由がある。

または、殺してくださるお方は、

「己のめぐり(業)を取り去ってくださる尊いお方!」

だましてくださるお方も、

「わたしたちのめぐりを取り去ってくださるありがたいお方!」

そうなると、正邪の区別はつけにくくなります。

だます人のほうが正しくて、だまされる方が、めぐりがあるので悪い人、ということになるかも。

ああ、なんだかめまいがしそう。

どなたかわたしのめまいを止めてください。

イーグルさんのメール

こんにちは。

「悪を抱き参らせよ」

は軽くひとことで言うと、

「人も物事もよく観よう」

という意味と思っています。

私達にとってみれば「悪」とは日常体験する各種のトラブルをはじめ、それに絡む人達や会社も含まれるし、自分たちの怒りや焦りなどの精神的肉体的負担も含まれます。

しかし逃げても、他人に任せても一向に事態は好転しません。

また、安直なポジティブな考えはいい加減さを助長し隙を作ります。

かといってキチキチに詰めたり相手を追い詰めれば、すぐ四面楚歌になり、相手が逃げて行く事は目に見えています。

ですからまず事態を受け止め、今何が起こってどうなっていくのかをしっかり確認する必要があります。

これが「悪を抱く」ことになると思います。

その上で一つ一つどうしたら自分達にとって一番よい結果になるのか考え実行しなければなりません。

それが「参らせる」にあたると思います。

ですから軽く言えば、

「悪を抱き参らせる」

とは

=人や物事をよく見る 

ことになるのではないかと思うのです。

また、人や物事をよくみるには、言いかえれば

「参らせる」

には、

「世間・社会の常識や慣例を切り離し、(もちろん宗教など論外)どうするのが一番筋が通っているかも検討する必要がある」

と感じています。

・・・って書くのは簡単なんですが、ちっともできませんねえ、

とほほ。

julaさんのメール

成すことが魂の悦び、歓び(達成感?)に結びつくのであれば、それは御用である。

それは善・悪を問わない。

「悪が改心する方が善をなすよりもより効果的?」

みたいなこともひふみ神示に書かれていたように思います。

「善ばかりでは立ち行かなくなることがある」

ということでしょうか。

善も悪もともに働いて作用しあって?こそ、進展があり、各段階で悪が改心することで一層の飛躍進展があるといった感じなのでしょうか。

これだと、「悪も抱きまいらせよ」ということも何か当てはまりそうです。

どうも現代的な一方的価値観の善・悪とは違うようでなかなか難しいですね。

千成のメール

千成です。

julaさん、説明ありがとうございます。

>悪が改心する方が善をなすよりもより効果的

なるほどです。

> 成すことが魂の悦び、歓び(達成感?)に結びつくので
>あれば、それは御用である。

> それは善・悪を問わない。

この部分は、ムムムです。

戦場で人殺しをするのに喜びを感じてしまうと、それは御用?

「善悪と問わない」

と言われると、ため息です。

わたしの頭では????

julaさん、わたしの頭でも納得できそうな表現を他に教えてください。

トッチさんのメール

トッチです。

千成さん、こんばんは。

最近の私のメールが行政批判っぽくなるのは、サタンの仕組みを認識したいが為です。

そして、

「時を誤るな、時節をよく見ろ」

と神示を通して時空間の認識の異なる次元から神が言っていますので、その時節を上手く把握する為には必要なことだと思います。

くしくもjulaさんが口語訳古事記を購入されて、神示を通して天皇家成り立ちからサタンの仕組みのカラクリが暴かれつつあります。

これは調査、検証作業から得た物ですので立派な学問と言えるのかもしれませんね。

julaさんの(高価な本購入の)出費を無駄にしないようにしなければなりません。

この過程は後にミロクが人民に働きかけるうえで必ず必要になる事だと思います。

さて、悪ですが、悪は悪で良いと思います。

悪は悪だから良い方向に仕向けなければなりません。

サイトの目標は

「ミロクの仕組みを理解できず、サタンの赴くままの世の中が常識であると洗脳されているが故に、みすみすサタンの餌になる運命の人民を救う為に、わざわざ人間界に降りているミロクのお手伝いをする事だと思っています。」

人間の奥には大元の神と通じていると神示にはあります。

と言う事は、人間の本質は善と言うことになります。

ところが、サタンの仕組んだカラクリにより悪を悪と分からずに、正義の為、国の為、家族の為、自分の為に、世間の常識だからと当たり前すぎて悪であると認識できずに悪を行います。

ミロクの仕組みに目覚めない人民、これを

「目くら」

と神示では表現しています。

みんな神の内にあるのに知らないだけと言う事ですね。

ミロクの仕組みやノアの大洪水について知らないのなら知らせてあげれば良い。

今は単純にそれだけで良いのではないでしょうか。

その為に、今私達も知る努力をしています。

それだけで良いと思います。

これは神サタンに対するミロク達大天使も同じなのかなと考えたりします。

悪については、

「これが悪なんだな〜」

と分かっていれば良いのではないでしょうかね。

「何故悪が大宇宙に存在するのか」

「悪がどんな役割を持っているのか」

はミロクが語る時があるのでしたら、その時に理解きれば良いのかもしれませんし、その前に自然と認識出来るのかもしれません。

そして理解出来る人間になるよう精進する事が携挙に繋がって、後にミロクの世の弥栄の為に御用を務めるのではないでしょうか。

悪を直接考えるより、ミロクの仕組みについて考えていた方が悪が判るのかもしれません。

「複雑に考えすぎると魔が入り込むかもしれませんよ〜」

なんて。

それより

「間に合わん事になるぞ」

と神示に言われた通りになってしまってはミロクが涙するでしょう。(T-T)←こんな感じで。

「悪を抱け」

につきましては私自身何となくイメージは出来るのですが、はらで判っているとは言えず肚に入っていませんので、あしからずと言う事で。

これは一種悟りの境地のようなものでしょうね。

理屈では理解できません。

神示を読みながら今在る環境を最大限生かしていければそのうち何とかなるでしょう・・・

>おまえたちは、単純バカだ、と言われているようです。

バカになりきれと神示は言ってますね。

どう捉えたら良いでしょう(^^)

julaさんのメール

現在の善悪はサタン?の都合に合わせて捻じ曲げられている。

ひふみで言及される善の御用、悪の御用と言う場合は、どうも元の神が意図する本来的な善・悪で、現代的な善・悪とは違う様子。

現代は善という名の悪であったり、間違いがまかり通っている。

逆に現代で悪と思われていることが本来善であるというように読める部分もある。

近代・現代で善的と捉えられていること・・・


宗教の戒律などに準じ、清く暮らす

国家を中心とする法律を遵守する

節制

禁欲

近代・現代で悪的と捉えられていること・・・


反国家的

わがまま

欲張り

個人の欲を満たす

ひふみの中では

「欲を浄化せよ」

といった記述もある。

欲を持つのは悪いことではない。

「欲を個人的なものごとにとどめずに、広く通用するレベルまで広めなさい」

と言っているようにも受けとれる。

欲を満たすことは色々な段階はあるけれども何らかの喜びにつながる。

必要は発明の母と言うように、不便を解消したい、などというような欲は大いに広めなさいといったところなのか。

むしろ、

「欲を持つな、禁欲的であれ」

といったことが、

「善でも悪でもなんでもない、動きのないもの」

におとしめてしまう。

これを嫌っているように思える。

「動き、働きを止めてしまうこと」

が、喜び、弥栄を止めることとして嫌われることになるのか?

大筋で言えそうなことは、

「結果的に皆を生かす、元の神の意図する喜びにつながるものは大いに為せ。」

という感じのよう。

また、愛の悪などという言葉もある。

智であれば、善・悪を区別して感知することができるが、

「愛で悪を受け止めようとすると、悪に染まって善悪の見境がつかなくなる危険がある」

というような記述もある。

そういったように捉えると、悪の御用は・・・

「結果的に皆を生かすことにはつながらないが、個々の欲は満たし、個々の喜びとなる?」

もしくは、

「動き、働きが無くなったところに対して、無理矢理動きを起させるような作用」

を指すのかもしれない。

現代の善悪は元の神の思うところの善悪ではなく、神サタンが自分の都合の良いように定義した善悪であるため、本来あるべき善悪からどうしてもズレタ解釈となって何か判らないことになってしまうということなのか。

と、ゴタゴタ書いてみたのですが、”愛の悪”で検索すると以下の帖に善悪などについて書かれていました。


地震の巻 第04帖 (381)

同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、

然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。

同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。

生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。

同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。

生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。

但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。

また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。

霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。

そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである。

生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。

一時的に満たすことはできても、長くは続かない。

この情態の原理は、地上人にも、反影している。

生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。

数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。

各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。

そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。

若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。

而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。

またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。

総てはを中心としての姿を形成しているのである。

とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。

しかし、この場合もでありである。

これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。

悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。

生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。

許されているから存在し行為し現われているのである。

この場合の悪は、悪にあらずしてであることを知らねばならない。

即ち、道を乱すが故である。

地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。

愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。

その根底力をなすは歓喜である。

故に、歓喜なき所に真実の愛はない。歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。

その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、となり、と集約され、その集約のの中にを生じ、更に尚と弥栄ゆる。

生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。

大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。

千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。

完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。

されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。

其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。

故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。

其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。

霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。

一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。

地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。

しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。

悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。

何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。

悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。

霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。

霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。

生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。

霊人も子を生むが、その子は歓喜である。

歓喜を生むのである。

地震の巻 第04帖 (381)

使用さされた特殊文字  


太陽による平易意訳■

太陽の解釈 :(第一回目)

同気同類の霊人は同一の情態で同じ所に和し弥栄え、然らざるものはその内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。

同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。

生前の世界は地上人の世界の原因であり主体であるが、また、死後の世界に通ずる。

同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。

生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。

但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。

また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。

霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。

そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである。

生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。

一時的に満たすことはできても、長くは続かない。

この情態の原理は地上人にも反影している。

生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。

数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。

各々の団体の中にはまた、特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。

そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。

若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。

而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。

また、これら集団と集団との交流は地上人の如く自由ではない。

総ては神の集団を中心として惟神の姿を形成しているのである。

惟神と神とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。

しかし、この場合も神は神であり、霊は霊である。

これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。

悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。

生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。

許されているから存在し行為し現われているのである。

この場合の悪は、悪にあらずして御用の悪であることを知らねばならない。

即ち、道を乱すが故である。

地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。

愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。

その根底力をなすは歓喜である。

故に、歓喜なき所に真実の愛はない。

歓喜の愛はこれを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。

その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、一となり、二と集約され、その集約の真偽の中に三を生じ、更に尚、歓喜と弥栄ゆる。

生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。

大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。

千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。

完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。

されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。

其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。

故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。

其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。

霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。

一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。

地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。

しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。

悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。

何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。

悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。

霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。

霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。

生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。

霊人も子を生むが、その子は歓喜である。

歓喜を生むのである。